TOP MAGAZINE特集 今こそ知っておきたい 能楽の世界

今こそ知っておきたい
能楽の世界

室町時代から途切れることなく演じられてきた能と狂言。「能」は面(おもて)と美しい装束を用いて歴史上の人物や物語を題材にした歌舞劇。人間の哀しみや怒り、恋慕などを描き、「そうろう調」の言葉で演じられる。対して「狂言」は庶民の日常を描いた喜劇で、「ござる調」などの分かりやすい言葉で演じられるのが特徴だ。そしてこの二つを合わせたものが「能楽」と呼ばれる。日本の伝統芸能として最も古い歴史を持つ「能楽」に、敷居の高さを感じる人は少なくないだろう。しかし、そこで描かれる人間の姿は普遍的であり、だからこそ、これほど長く人々の心を掴んできたのだ。今回は、そんな日本独自の舞台芸術「能楽」の世界をのぞいてみたい。

取材協力 公益社団法人 宝生会

Edit&Word_NOBUYUKI YAMAHA. IKUMI UENO. KANTA KOSUGI(effect).Photographs_KAZUO ITO.

650年を超える歴史

室町時代から続く独自様式の芸能

能の演目は約250曲ほどあり、ほとんどが室町時代に書かれたものだといわれている。なかでも「翁」は源流が最も古い代表的な演目

能の演目は約250曲ほどあり、ほとんどが室町時代に書かれたものだといわれている。なかでも「翁」は源流が最も古い代表的な演目

能楽のルーツは8世紀の奈良時代に唐から渡来した、アクロバットやマジックなどの多種多様な芸能、散楽(さんがく)にある。平安時代には、滑稽な寸劇が主体となった猿楽(さるがく)へと変質し、後に厄払いなどの行事の影響を受けた面を用いる仮面芸能へと派生。それが歌や舞を取り入れつつ、様々な感情を描く「能」へと姿を変えた。やがて、多くの集団が能を演じることで、足利義満、豊臣秀吉ら時の権力者からの人気と芸術的完成度が高まっていったという。また、地方の村々でも祭礼の神事として盛んに演じられ、雨乞いなど民衆の願いと共に受け継がれてきた。650年を越える歴史の中で独自の様式を築き、今も伝統芸能として発展し続けている。

能舞台後方にある鏡板に、必ず描かれている松の絵。松は神様が宿る木とされ、能楽が神様に奉納されてきた時代を再現している

能舞台後方にある鏡板に、必ず描かれている松の絵。松は神様が宿る木とされ、能楽が神様に奉納されてきた時代を再現している

能楽の基礎知識

明確な役割分担と重要な小道具

囃子方は笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。また能楽の演者の中でシテ方を除いた、ワキ方、囃子方、狂言方を能楽三役という

囃子方は笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。また能楽の演者の中でシテ方を除いた、ワキ方、囃子方、狂言方を能楽三役という

能楽においては主役を演じるシテ方、助演的な役割などを担当するワキ方、笛や太鼓を奏でる囃子方、主に狂言を演じる狂言方と、演者の役割が明確に分かれている。シテ方は歴史上の人物などの人間以外にも、『源氏物語』の優美な男女の霊、あるいは鬼など多彩な役を演じ、情景や登場人物たちの心理などをナレーション的に描写する役割、地謡(じうたい)を受け持つ。対して、ワキ方の役柄はすべて現実に生きる成人男性となり、シテ方の相手役を演じる。狂言方はシテ方やワキ方の家来などに扮し、アイと呼ばれる役で能に登場することもある。そんな役者とともに、能楽に欠かせない要素が笛、大鼓などによる囃子で、この囃子方の演奏が、内容や場面に合う情趣や世界観を表現するのだ。また能楽には多くの小道具があり、最も重要な役割を果たすのが能面。能面はシテ方の演者が、この世に存在しない役柄や女性などに扮する時に着用し、能楽師は面にあてる微妙な光の角度を調整し、感情を豊かに表現するのだ。華やかな衣装は装束と呼ばれ、繊細で美しいものは女性を演じる際に使われるなど、役ごとに形や色が異なるのが特徴。演者全員が舞の際に持つ扇は、盃や刀などに見立てて使われることもある。

  • 囃子方は笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。また能楽の演者の中でシテ方を除いた、ワキ方、囃子方、狂言方を能楽三役という
  • 囃子方は笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。また能楽の演者の中でシテ方を除いた、ワキ方、囃子方、狂言方を能楽三役という

面は約250種類もあるといわれており、若い女性を表す小面(写真左)、怨霊となった女を表す般若(写真右)などが有名

能の種類と代表的演目

古くから継承される5種の能劇

「清経」の一場面。前シテが後シテの化身という異質な設定の現代能的な作風。緊張感のなかでの力強い地謡と清経の舞が見どころ

「清経」の一場面。前シテが後シテの化身という異質な設定の現代能的な作風。緊張感のなかでの力強い地謡と清経の舞が見どころ

能の演目は約250種あり、シテ方が演じる役柄によって「神、男、女、狂、鬼」の5つのジャンルに分類される。「神」では神の化身や神体、「男」は男性の武将の亡霊や死者、「女」は女性や天女、「狂」は所謂物狂い、「鬼」は鬼や天狗、妖精などである。この5種類を記載している順番で上演することを「五番立」といい、江戸時代に生まれた代表的なプログラムといわれている。あまりにも長時間の公演となるため現在では正式な形でほとんど催されることはないが、今なおすべての演目はこの五番立を主軸に構成されているのだ。また正式な五番立の上演前には、「能にして能にあらず」といわれるほど別格に扱われる演目「翁」を観劇できる。「翁」は物語のない平和や豊穣を願う神事で、今でも正月や祝賀の会などのおめでたい時期には祈祷の意味も込めて披露されている。

代表的な演目

  • 「翁」

    特別な会で演能される別格の演目。演者は神となり天下泰平、国土安穏を祈るため舞う

  • 女(三番目物)「羽衣」

    羽衣伝説を基にした演目だが、昔話とは異なる筋立てで、優美な明るさで清らかな曲

  • 神(初番目物)「高砂」

    室町時代から広く人々に親しまれてきた能の代表的な祝言曲。現代でも祝いの場などで多用

  • 狂(四番目物)「葵上」

    鬼にならざるを得なかった元皇太子妃である御息所の恋慕と嫉妬の情が中心の物語

  • 男(二番目物)「清経」

    能を大成させた世阿弥の出家以前の代表作のひとつで、シテ方演じる亡霊が妻の夢に現れる設定

  • 鬼(五番目物)「殺生石」

    絶世の美女に化け平安を乱す存在とされる九尾の狐の伝説を基にした変化に富んだ内容

能楽を鑑賞できる施設

身近にある、能楽堂をご紹介

宝生能楽堂。能楽堂の構造は基本すべて同じで、松が描かれた鏡板、本舞台、左奥に伸びる廊下のような橋掛りで構成される。

宝生能楽堂。能楽堂の構造は基本すべて同じで、松が描かれた鏡板、本舞台、左奥に伸びる廊下のような橋掛りで構成される。

能や狂言を上演するための能楽堂。客席と舞台を分ける幕がなく、屋外で上演されていた昔の名残で舞台に屋根があるのが特徴だ。ここでは東京都内と神奈川県の施設を紹介しよう。

  • 代々木能舞台

    住所:東京都渋谷区代々木4-36-14
    TEL:03-3370-2757
    席:本舞台(屋外舞台)270席、敷舞台120席

  • 十四世喜多六平太記念能楽堂

    住所:東京都品川区上大崎4-6-9
    TEL:03-3491-8813
    席:385席

  • 矢来能楽堂

    住所:東京都新宿区矢来町60
    TEL:03-3268-7311
    席:237席

  • セルリアンタワー能楽堂

    住所:東京都渋谷区桜丘町26-1 B2F
    TEL:03-3477-6412
    席:201席

  • 靖國神社能楽堂

    住所:東京都千代田区九段北3-1-1
    TEL:03-3261-8326
    席:屋外

  • 宝生能楽堂

    住所:東京都文京区本郷1-5-9
    TEL:03-3811-4843
    席:490席

  • 国立能楽堂

    住所:東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1
    TEL:03-3423-1331
    席:627席

  • 二十五世観世左近記念観世能楽堂

    住所:東京都中央区銀座6-10-1 GINZA SIX B3F
    TEL:03-6274-6579
    席:480席

  • 銕仙会 能楽研修所舞台

    住所:東京都港区南青山4-21-29
    TEL:03-3401-2285
    席:200席

  • 梅若能楽学院会館

    住所:東京都中野区東中野2-6-14
    TEL:03-3363-7748
    席:定席303席、補助35席

  • 川崎能楽堂

    住所:神奈川県川崎市川崎区日進町1-37
    TEL:044-222-7995
    席:148席

  • 久良岐能舞台

    住所:神奈川県横浜市磯子区岡村8-21-7
    TEL:045-761-3854
    席:約100席

シテ方宝生流第20代宗家・宝生和英さんに聞く
今の時代にこそ、能が必要な理由

若くして、シテ方宝生流の宗家となった宝生和英さん。
宝生家に生まれ、能と長く向き合ってきた宝生さんは、今の時代にこそ能が必要だと感じているという。その理由を伺った。

数ある能楽の演目の中でも、別格と称される「翁」を演じる宝生さん。能楽師としても、宗家としても並々ならぬ努力を重ねてきた

数ある能楽の演目の中でも、別格と称される「翁」を演じる宝生さん。能楽師としても、宗家としても並々ならぬ努力を重ねてきた

PROFILE

宝生和英さん
宝生和英

1986年生まれ。父、第19世宗家宝生英照に師事。宝生流能楽師佐野萌、今井泰男、三川泉の薫陶を受ける。1991年能「西王母」子方にて初舞台。2008年に宝生流第20代宗家を継承。これまでに「鷺」「乱」「石橋」「道成寺」「安宅」「翁」、宗家一子相伝「弱法師 双調之舞」「安宅 延年之舞」「朝長 懺法」を披く。伝統的な公演に重きを置く一方、異流競演なども行う。2008年東京藝術大学アカンサス音楽賞受賞。2016年文化庁東アジア文化交流使、2019年第40回松尾芸能賞新人賞受賞。2023年よりミラノ大学客員教授に就任。

約束されていなかった道
20歳で挑んだ大曲が転機に

室町時代に大成して以来、長い歴史を誇る能には役柄によって複数の流派があり、その命脈を保ってきた。シテ方の流派の中でも大きな勢力を誇り、能を大成させた観阿弥の兄、宝生大夫が祖とされるのが宝生流だ。重厚な芸風の一方、「謡(うたい)宝生」と呼ばれる優美な節回しで、人々の心を掴んできた。2008年に逝去した先代の父に代わり、22歳という若さで第20代宗家となったのが、宝生和英さん。だが、継承に至るまでの道のりは、決してなだらかなものではなかったという。

「宝生家に生まれたという理由だけで、宗家の座が約束されていたわけではありません。私は幼少期に実力を示すことができなかったため、周囲からは継承を不安視する声もあり、認めてもらわなければいけない段階が非常に多くありました」

宝生さん自身も、能の世界に貢献できるのであれば継ぎ、力不足であれば退くと、非常にシンプルに考えていたそうだ。

そんな宝生さんの大きな転機となったのが、能の中でも大曲の一つとして有名な、「道成寺」に20歳で挑んだこと。一般的に能楽師は型や発声を体得できるのが大体30歳前後といわれており、この年齢での大役への挑戦は異例のことだったという。当時の心境を、宝生さんはこのように振り返る。

「それまで経験してきた役柄とはあまりにもレベルが違いすぎて、自分でも演じきれるかどうか分からなかったんです。しかし乗り越えることができれば私の試金石になるのではないかと思い、挑みました」

結果的に「道成寺」の役を見事に演じきり、公演は大成功。壁を一つ乗り越えたと感じたという。この公演を機に周囲からも徐々に信頼を得られるようになっていき、22歳で宗家を継承する運びとなった。

不安定な現代こそ
能で自分を整え、大局を見る

50年以上の長きに渡って愛されてきた能を、現代でも演じ続けることに対して、宝生さんはどんな意義を感じているのだろうか。世界情勢が不安定な今こそ、人々の生活に能が必要だと宝生さんは言い切る。

能は打合せも公演も一度きりで行われ、リハーサルは無い。能楽師はそんな緊張感のある舞台上で、その1回に最高のコンディションを発揮しなければならず、ある意味スポーツ的な鍛錬が必要だと宝生さんはいう。

能は打合せも公演も一度きりで行われ、リハーサルは無い。
能楽師はそんな緊張感のある舞台上で、その1回に最高のコンディションを発揮しなければならず、ある意味スポーツ的な鍛錬が必要だと宝生さんはいう。

「まずお伝えしたいのは、能は舞台演劇ではありますが、エンターテインメントではありません。エンターテインメントの本質は、驚かせること、感情を動かすことにありますが、能の本質は、その真逆にあります。能は心を落ち着けるものであり、いわばアンビエント文化といえるものです」

アンビエントとは、作曲家ブライアン・イーノが提唱した環境音楽のことで、環境に溶け込んだスローテンポな音楽のことを指す。その音楽のような性質が、能にあることを見抜き、そして能におけるアンビエント文化こそが、今の日本に必要だと気付いたというのだ。

「最近サウナが流行し、『整う』という言葉が注目されていますが、世界情勢が不安定な今だからこそ、能を通して心を落ち着け、自分と向き合い、大局を見る力を養うことで、『整う』必要があると思っています。実際、能楽が隆盛した高度成長の入り口の時期には、財閥の方々はこぞって能を習い、どんな局面でも揺るがない自分の軸を確立していたといわれています」

能の魅力はその懐の深さ
自分なりの解釈を楽しむ

能を初めて見るという人が、楽しく鑑賞するためには、どんなことを意識するといいのだろうか。
「美術館で絵画を見るように、自分なりの解釈を楽しむのがおすすめです。能の演目は、いたってシンプルなストーリー展開なので、それを追うこと自体に、能の醍醐味はないと私は思っています。作品からどんなことを受け取ってもいいですし、まったく別のことに結びつけてもいい。そんな風に思いながら見ることで、能の面白さに気付いていただけるのではないかと思います」

「弱法師(よろぼし)」を演じる宝生さん。公演では、宝生流に代々受け継がれる面が用いられる。面は補修が可能なため、室町時代のものも残っているという

「弱法師(よろぼし)」を演じる宝生さん。公演では、宝生流に代々受け継がれる面が用いられる。面は補修が可能なため、室町時代のものも残っているという

実際、舞台に立っている宝生さんもその作品とは別のイメージを持って演じていることがあるという。

「例えば杜若(かきつばた)という、在原業平の恋愛を描いた曲を演じているときには、私の頭の中に『冷静と情熱の間に』という映画が思い浮かんでいます。心の中には、テーマ曲だったエンヤの歌声が流れてきて、イタリアの情景が広がっている。このように能の舞台とは全く別のものを結びつけられるのも能の魅力の一つだと、私は考えています」

能の懐は深い。伝統芸能だからと、襟を正して見るだけでなく、何を感じてもいいのだと少し力を抜いて見ると、能の神髄の一端に触れることができるのかもしれない。

もう一つ、宝生さんが提唱するのが、能を体験してみることだという。

「能の魅力は、心を落ち着け、自分と向き合えることだとお話ししましたが、それはやはり自らがやってこそ体得できるものだと思っています。サウナに入っている人を見ても『整う』ことがないように、実際に能を体験しているか、していないかの間には大きな差があると思うんです。生活に取り入れることで、どんな時にも揺るがない自分を手に入れることができ、さらには健康維持にもつながります。能の基本姿勢では普段使わない下半身の筋肉が重要になるので、足腰が鍛えられるのです。そして能を鑑賞することも、もっと楽しめるようになるはずです」

能を習ったり、体験できる場所や、鑑賞できる施設は全国各地に存在している。先の見えない不安定な今だからこそ、能に触れてみてはいかがだろう。

宝生和英さん公演のお知らせ
宝生能楽堂45周年記念公演

2024年7月14日(日)13:00開演
場所:宝生能楽堂
配役:能「翁」宝生和英、狂言「二人袴」野村万作、
能「関寺小町」大坪喜美雄、能「鞍馬天狗 天狗揃」前シテ宝生和英、後シテ武田孝史

宝生会ワークショップ

宝生さんが所属する宝生会では、能舞台、装束、能面など宝生会の持つ文化的資産を活用したワークショップの企画を行っている。会場は宝生能楽堂や外部スペースでの開催も可能。ご興味のある方はご相談を。

公演・ワークショップの情報は、宝生会ホームページへ。

※2024年5月7日現在の記事です。詳細はお問い合わせください。

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