厳密な意味で野生の馬ってこの世に存在しないんですよ。野生とされる馬はいますが、遠い昔に家畜化された馬が放たれて野生化したものなんです。馬は優しくて臆病。長い歴史のなかで人間と共に助け合いながら生きてきたんです。私にとっても馬はかけがえのない存在です。この先も一生寄り添って生きていくと思います。
馬には2歳の時から触れ合ってきました。
もはや切っても切れない存在ですよね。
切ったら病んでしまうかも(笑)。
総合馬術でオリンピックに2度出場し、リオ、東京大会では日本代表の監督を務めた
細野茂之さん。選手として、指導者として日本馬術界を見つめてきた細野さんに、
“初老ジャパン”躍進の秘密や、馬、そして馬術への想いを聞いた。
Text_YUKI KATORI.
Photographs_HISHO HAMAGAMI.
PROFILE
細野茂之(ほそのしげゆき)
1968年東京都八王子市出身。70年に父が八王子乗馬倶楽部を開設し、馬と共に成長する。93年日本大学農獣医学部獣医学科を卒業し獣医師免許を取得。総合馬術選手として96年アトランタ五輪、00年シドニー五輪など数多くの国際試合に出場。08年北京五輪はコーチとして、16年リオ五輪と20年東京五輪は監督として参加。現在は八王子乗馬倶楽部代表兼プレイングマネジャーとして選手の育成に取り組むほか、日本大学馬術部ヘッドコーチや公益社団法人全国乗馬倶楽部振興協会副会長も務めている。
長い馬術人生における
オリンピックの悲喜交々
2024年の明るい話題といえば、パリオリンピックでの日本選手団の活躍がある。総合馬術団体でも銅メダルを獲得し、〝初老ジャパン〟のニックネームは流行語大賞に選ばれるほどの話題を集めた。馬術競技では92年ぶり、団体としては史上初のメダル。細野茂之さんはこの快挙の立役者の1人といっていいだろう。
「これまで多くの人と馬に育ててもらったので、恩返しのつもりでリオ大会から東京大会までナショナルチームの監督をさせていただきました。〝東京大会でメダルを!〟という目標で日本中央競馬会の協力などもあり一気に強化が進みましたが、結果は個人4位入賞が最高でした。コロナ禍で合同合宿ができなかったり、無観客で応援を力に変えられなかったり、地元開催の気負いがあったり、様々な要因がマイナスに働いてしまいましたよね。それでもその悔しさを糧に選手が努力した結果が、パリでのメダルです。ちょっと遅れちゃったけど目標達成です」 細野さん自身も選手として二度のオリンピックを経験している。
「2000年のシドニー大会では辛い経験をしました。一緒に戦った馬はフランスに留学の際に出会ったユルフデランド。すごく能力が高いのですが故障がちなガラスの名馬で、大会中に故障させてしまい途中棄権しました。あの時は馬にも本当に申し訳なかった。大会後は日本に連れて帰って、最期まで一緒に過ごしました。選手と馬はミックスダブルスのパートナーのようにお互いを助け合う関係です。言葉は通じなくても、騎乗すると手綱や鞍、ふくらはぎの内側から緊張や不安や自信など、様々な感情が伝わってきます。こちらの想いも伝わっていると思います。〝あーこいつ緊張してんな〟とか、〝のびのびやってるな〟とか。馬には嘘が通用しません。そこが面白いところであり、難しいところですね。〝馬術〟とは馬の気持ちを読んで表現すること。お互いのバイオリズムがぴったり合ったときに、良い結果に結びつくんです」
初老ジャパンの快挙を
追い風に変えて……
現在は後進の育成、馬術、乗馬の普及にも積極的だ。
「八王子乗馬倶楽部や母校の日本大学馬術部からオリンピック選手が出たら嬉しいですね。国際大会を目指す選手は、試合の都合などもあって海外で武者修行するのが一般的です。しかしそのルートだけだと、海外に拠点を作れない若い選手は希望が持てなくなります。才能ある若い選手が国際大会を目指せる環境作りがとても大事なので、監督を務めた2023年の杭州アジア大会は、あえて日本で活動する若手だけでチームを作りました。この取り組みで国内のレベルも随分上がってきましたが、ヨーロッパの強豪国は馬産技術も調教技術もまだまだ格段に上です。そんな状況下にもかかわらず、パリ大会でメダルを獲得できたのはまさに歴史的快挙。この勢いを選手育成や馬術の普及、そして乗馬文化自体を盛り上げていく活動を、これからも続けていきたいですね」
- 1996年のアトランタ大会で五輪初出場を果たした細野さん。
- 監督として参加した2018年の世界馬術選手権大会の1枚。一緒に写っているのは、パリ五輪で活躍した初老ジャパンのメンバーだ。
都内で唯一野外コースを持つ、細野さんが代表を務める八王子乗馬倶楽部。
八王子乗馬倶楽部
電話番号: 042-691-1915